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倭建命(ヤマトタケルノミコト)


倭建命(ヤマトタケルノミコト)は第12代景行天皇の子として誕生しました。幼名を小碓命(オウスノミコト)といい,兄の大碓命(オオウスノミコト)とは双子の兄弟とも言われています。

ある日、大碓命は父から美濃の国にいる美しい姉妹を連れてくるように言われました。ところが大碓命は、二人があまりに美しい娘たちだったので自分の下に置くことに決め、父の前には別の娘を差し出してごまかすことにしました。しかし、このことが父に知られることとなり、大碓命は父の前に顔を出しづらくなってしまったのです。そのため、朝夕の食事にも同席せず、大事な儀式に出ないことで父を怒らせてしまいました。そこで、父は弟の小碓命(ヤマトタケルノミコト)に食事の席に出るよう、諭してくるように命じました。小碓命は早々に兄に会い、教え諭しました。しかし、それでも大碓命が顔を出さないので、父が小碓命にどのように諭したのかを尋ねたところ、「朝,兄が厠(かわや:便所)に入ったとき、手足をもぎ取り、体を薦(こも:わらを編んで作ったむしろ)に包んで投げ捨てました。」と、こともなげに言うのです。これを聞いた天皇は、小碓命の気性の荒さを恐れ、西征を命じて、密かに自分から遠ざけるのでした。

小碓命がまず赴いたのは、朝廷に屈せず度々反乱を起していたクマソタケル兄弟が勢力を張る南九州です。九州の熊襲建は大きな家を新築したばかりで、そこでは祝いの宴が催されていました。小碓命は髪を女形に結い上げ、叔母から授かった着物を着て宴に紛れ込みました。酒を飲んで上機嫌になっている兄弟の頃合を見計らって、持っていた短刀で兄を一気に斬り殺してしまいました。それを見て外に走って出ようとした熊襲建の弟を追い、背中から刀をさしたのです。弟は、この勇敢さに敬意を表し、小碓命に「ヤマトタケル」という名を贈り、息をひきとりました。小碓命はこれより倭建命(ヤマトタケルノミコト)と名乗ることにしました。(「建」は勇敢な者という意味を持つ)

大和にある宮に戻る途中も、山の神、川の神、河口の神などの大王に従わない者たちを征伐しました。出雲の国の出雲建(イズモタケル)を征伐するときも頭を使って勝利し、国を平定しました。こうしてヤマトタケルは父親の思惑とは裏腹に、南九州ばかりか、出雲までも平定して大和に凱旋するのでありました。
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