石川神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山の西のふもと、布留山(ふるやま)の北西ふもとの高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺には古墳密集地帯として知られています。 当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。 御祭神は、神武天皇御東征の砌、国土平定に偉功をたてられた天剣(平国之剣くにむけしつるぎ)とその霊威を布都御魂大神、鎮魂たまふりの主体である天璽十種種瑞宝あまつしるしとくさのみづのたからの起死回生の霊力を布留御魂大神、素盞嗚尊すさのおのみことが八岐大蛇やまたのおろちを退治された天十握剣あめのとつかのつるぎの威霊を布都斯魂大神ふつしみたまのおおかみと称え、総称して石上大神と仰ぎ、第十代崇神天皇七年に現地石布留の高庭に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮」「石上坐布都御魂神社」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれました。 平安時代の後期、白河天皇は当神宮を殊に祟敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿を寄進されたものと伝えています。 中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治四年官幣大社に列し、同十六年には神宮号復称が許されました。 当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治七年、管政友大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正二年御本殿が造営されました。 禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。
摂社としては、出雲建雄いづもたけお神社(延喜式内社)・天神社・七座社があります。尚、出雲建雄神社の拝殿、内山永久寺(現在廃寺)の鎮守社の拝殿を同寺廃絶後対象三年に移築したもので、中央に一間の「馬道(めどう)」と呼ぶ通路を開く割拝殿の典型的なものであり、国宝に指定されています。 末社としては境内に猿田彦神社・神田神社・祓戸はらえど神社、境外に恵比寿神社があります。 摂社出雲建雄神社拝殿(国宝) 拝殿(国宝)
神宮には古代各氏族の王権を象徴する神宝を始め、大和朝廷の数を多くの神宝類が天神庫あめのほくらに保管されていました。その量ははかり知れないほどの莫大な量であったと考えられ、下って「日本後記」には、平安時代初期の延暦二十四(八百五)年に当神宮の器仗を山城国葛野郡に遷すのに十五万七千余人の人員を要したと記されています。しかし、中世以降衰退の一途を辿り、戦国時代の織田尾張勢の乱入や度々の盗難によって多くの宝物が散逸しました。 現在残っているものは少量ですが貴重なものが多く、古代の日朝関係を考察する上で不可欠な七支刀(国宝)を始め、鉄盾(重文)、足利尊氏奉納と伝えられる兜を具した色々威腹巻いろいろおどしはらまき(重文)更に禁足地発掘により出土した勾玉・管玉・環頭大刀柄頭等(重文)が神庫ほくらに収蔵されています。 尚、毎年大晦日には、神庫の守護神を祀り、その安泰を祈る神倉祭が斎行されてます。 鉄盾(重文) 七支刀(国宝) 硬玉勾玉(重文) 環頭大刀柄頭(重文)
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